2005年12月28日

コートを着て

 カフェをはしごしながら勉強中。

 それにしても今日も寒い。あまりに寒いので、先日(11月14日)買ったコート(ライナーは付いているのだが、薄いせいか寒い)ではなく、厚手のウールのコートを着て出てきた。このコートは大学院時代に留学中に買ったものだから、もう14年ほど着ていることになる。さすがにくたびれてきたが、普段着る分には問題ない。厚手だから重いが、その分暖かい。

 留学中、唯一と言っていい高い買い物がこのコートだった。バーゲンシーズンも終わりそうな頃、街のセレクトショップで買い求めたものである。確か日本円に換算して35,000円ほどしたのではなかったか。40%オフぐらいだったから、バーゲン前には60,000円ぐらいか。日本で買い求めていたら10万円はしたと思う。

 「貧乏人は高いものを買え!」とは、うちの年配の同僚の口癖だ。高いものの方が長持ちして、結局は安く付くからだ。その通りだと思う。その通りなのだが、あまりに貧乏だと、高いものを買ったらその日から食べるものを買う金がなくなってしまう・・・。

 6万円のコートを高いというと反論はあろうが、貧乏留学生には十分高かった。バーゲンで安くなっていても、買うときはかなりの覚悟が必要だった。それでもこのコートは買ってよかった。10年は着られると思ったが、それ以上持っている。何よりも暖かい。留学中の寒さからこのコートは身を守ってくれた。コートを買って、財布はいっそう寒くなったが、このコートを着れば身体は暖かくなったし、心も(少しだけ)暖かくなった。
posted by Prof.T at 16:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月22日

生協委員のS君

 昨日、生協の白石さんに引っかけた話題を書いたら、生協委員のS君のことを思い出した。

 大学に入ってすぐに生協主催のオリエンテーションがあった。クラス(第2外国語をもとにして編成された。第2外国語だけでなく、英語もこのクラスで授業を受けた。ちなみに私は19組だった)ごとに集められ、生協委員なる上級生が大学生活のあれやこれやを指導してくれた。コンパとか試験のこととか、説明は1時間ほどだったと思うが、その際に生協委員を選出するように言われた。今は知らないが、当時はクラスごとに生協委員を選出していたのだ。学生代表の生協委員と教職員代表の生協委員が、生協の職員とともに、生協を運営していたように記憶する。

 その生協委員に選ばれたのはS君だった。先輩の生協委員に指名されたのか、自分で手を挙げたのか、やってみないかと声をかけられて「それでは」的に選ばれたのか、最後だったような気がするが、記憶は定かではない。当時は(今もかもしれないが)生協主催のオリエンテーションの行事がいろいろあって、生協委員のS君がクラスにいろいろ情報を伝達してくれた。

 3年になると、語学がなくなり、クラスで集まることはなくなったので、S君とは顔を合わせることはなくなったが、その名前は頻繁に見かけた。当時、S君が「ひとことカード」の担当者だったからである。当時から「ひとことカード」にはいろいろな質問が寄せられていたが、S君はまじめに、ときにユーモアを交えて回答していた。

 S君の就職先は大学生協だった。「ひとことカード」の回答が評判が良かったのか、あるいはそれ以外の働きが良かったのか、大学生協が職場として気に入ったのか、理由はわからない。しかし、新入生のオリエンテーションで生協委員にならなかったら就職することもなかったのだろうから、人生とは本当にわからないものである。

 イニシャルはだが、白石さんではない。


posted by Prof.T at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月18日

リヴァプール

 まもなくトヨタカップの決勝戦。サンパウロvs.リヴァプールの決勝は、期待を込めて2対1でリヴァプールの勝ちと予想。

 実は中学生の頃に、ほんの少しサッカーをやっていて、『サッカーマガジン』や『イレブン』などのサッカー雑誌を読んでいた。これら2つの雑誌、とくに『イレブン』と『ダイヤモンドサッカー』で、海外のサッカーに触れた。当時(1970年代前半)はイタリアやスペインのサッカーよりもドイツ(当時は西ドイツ)やイングランドのサッカーの方が紹介されていた。

 バイエルン・ミュンヘン、1FCケルン、ボルシアMG(いずれも西ドイツ)、アーセナル(イングランド)などと一緒に名前を覚えたのが、リヴァプールだった。今と違って、各チームのユニフォームはシンプルなデザインだったが、中でもリヴァプールの赤のユニフォームのシンプルさが際だっていた。そのシンプルなデザインが今も基本的に継承されているのはうれしい。

 サンパウロの名前も当然覚えたが、どういうわけかブラジルサッカーよりもヨーロッパのサッカーに関心を持った。現在のヨーロッパに対する関心の起源は、案外こんなところにあるのかもしれない。
posted by Prof.T at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月04日

ネコジャラ市の11人

 ♪ねえムーミン、こっち向いて♪というムーミンのテーマは、井上ひさしの作詞による。私が中学から大学に入る頃まで、もっとも読んだ作家が井上ひさしだった。もっとも戯曲はほとんど読まず、もっぱらエッセイだったのだが、私は井上ひさしから文章のリズムや諧謔を学んだ。

 井上ひさしが若い頃テレビ草創期の放送作家として活躍したことは知られている。代表作の1つが『ひょっこりひょうたん島』であることは言うまでもない。しかし、私と同年代にとっては、『ひょっこりひょうたん島』よりも『ネコジャラ市の11人』の方が思い出深いはずだ。

 どちらも平日の午後6時過ぎから放送されていた連続人形劇だが、『ひょっこりひょうたん島』は、小学校低学年で放送が終了してしまい、ほとんど記憶がない。その後、『空中都市008』を挟んで放送されたのが、『ネコジャラ市の11人』であった。『ひょっこりひょうたん島』とほぼ同じスタッフだったためか、ギャグがきつかったせいなのか、『ひょっこりひょうたん島』ほど話題に上ることはないが、連続人形劇といえば、私にとっては『ネコジャラ市の11人』である。

 ♪ここはまだ石ころごろごろ、ここはまだ草がぼーぼー♪という『ネコジャラ市の11人』で流れた歌が、私たちは大好きだった。当時、小学生だった私たちは、「帰りの会」なるもので歌を歌っていたが、卒業間際の頃に、この歌を毎日歌っていた。ある日、珍しく機嫌のいい担任の男性教諭がにこにこと指揮をしてくれたことを覚えている。担任も『ネコジャラ市の11人』のファンだったと思う。

 4年後に進学した高校では、世界史の教員の1人をみな、ベンキョーチューと呼んでいた。ベンキョーチューは『ネコジャラ市の11人』の登場キャラクタの1人(ネズミだから1匹か?)だが、『ネコジャラ市の11人』はそれほどの人気番組であった。顔の形も牛乳瓶の底のようなレンズのメガネもそっくりだったが、私はベンキョーチューには教わらなかった。

 残念ながら、『ネコジャラ市の11人』の資料は、NHKにもほとんど残っていないという。当時、一緒に♪ここはまだ石ころごろごろ♪と歌った同年代の方にも『ネコジャラ市の11人』って何?という方にも、『ネコジャラ市の11人』の覚え書きのページがひじょうに参考になる。
posted by Prof.T at 23:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

留学先のアパートで・・・

 とうとう雨が降り出した。スーパーへ買い物に行こうかと思っていたが、中止だな。今日は家で引きこもりだ。

 寒い冬に引きこもりということで、留学していた頃を思い出した。1年目の冬、知り合いなどいない地で、大学の授業や買い物などの必要な用事で出る以外は、家の中に閉じこもっていたことを思い出した。

 どんより曇って、雨が降り出しそうな天気は、慣れない留学生活を一層不安なものにした。ガスストーブをつけ、部屋を暖め、テレビをつけて、ソファに丸くなって横になっていてばかりいた。今もそうだが、その時は今以上に惰眠をむさぼった。おそらくは慣れない生活で、かなり神経を使っていたからだろう。大学の授業はもちろん買い物も緊張のし通しだった。テレビをつけて寝ているのは今も同じだが、当然日本語ではないから、その視聴さえ、集中力を必要としたのだった。
posted by Prof.T at 15:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月29日

師匠と年賀状2

 師匠と年賀状ということではもう1つ驚いたことがあった。ある年の大学院の追いコンの時のことだ。同期の1人が何の連絡もなく欠席した。どうしてるのかと話題になったときに、師匠がぽつり「年賀状も来なかったなあ」と一言漏らした。一同びっくり!まさか指導している学生の誰が年賀状を出し、誰が出していないか、覚えているとは思わなかったからだ。驚いて、そして、「出していて良かったよ」と、あとでみなで話したのだった。
posted by Prof.T at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月28日

ノックをするのは誰だ・・・

 師匠への電話に緊張する話を書いたが、大学院の頃、とくに修士課程の頃は師匠の研究室のドアをノックするのに緊張したものだった。

 金曜日の午後に研究指導があったのだが、開始ちょっと前に研究室前に集まって、同期やら先輩やら、あるいは後輩やらが集まって、誰がノックするのか、誰が最初に入るのか、互いに牽制し合っていた。今考えると無駄な牽制だったが、とにかくみな緊張しまくったのだ。大学院は徒弟社会的な側面があるから、仕方がないと言えば仕方がない。弟子にとって、師匠、親方は、たいてい怖い存在なのだから・・・。同じような光景は他の研究室でも見られたようだし、他大学でも似たような話を聞いたことがある。

 もっとも私の師匠はそれほど厳しい人ではない。ただ、情けない院生の報告に対して、厳しいコメントをつけただけだった。それは静かな口調だったが、またきわめて本質的で、そのため報告者は最後には意気消沈することが多く、また他の学生もほとんどフォローできず、研究指導のおしまいの方ではいつも何とも言えない沈黙が支配したのだった。おそらくはこの沈黙の時間が院生を過度に緊張させ、またノックを躊躇させていたのだと思う。
posted by Prof.T at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

家庭教師の報酬

 昔よく行った居酒屋が安かった話を書いた。金曜日のコンパも3000円しか請求されなくて、それでいて飲み放題だからかなり安い。料理も飲み物も値段相応のものとはいえ、まだまだデフレの影響は残っているのだろうか。

 デフレといえば、家庭教師の報酬もかなりデフレ気味のようだ。以前、院生と話をしていたら、彼がやっている家庭教師の報酬は時給1600円だという。テレビでCMをたくさん流している家庭教師センターの紹介だというが、安すいなあ。

 私が学部生の頃、最初に教えはじめた小さな町塾の講師の時給が1500円だった。その後、家庭教師のアルバイトもやった。こちらの時給はよく覚えていないのだが、塾講師の時給よりは良かったから、時給2000〜3000円ぐらいはもらっていたと思う。

 大学院まで進んでいるのだから、それに見合った報酬をくれるアルバイトをするべきだと思う。あまり安く自分を売るべきではない。それに勉強が第一だ。アルバイトを余儀なくされることはわかるが、それならば効率よく稼いで勉強に時間を割くべきだ。

 
posted by Prof.T at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月19日

コンパと居酒屋

 昨日のゼミ合同コンパは「村さ来』で開催。懐かしい名前だ。大学に入学して、『養老乃瀧』より安い居酒屋チェーンがあると先輩に教えられて連れて行かれたのが、この居酒屋チェーン。貧乏学生には便利な居酒屋チェーンだった。

 他にも、安い居酒屋としてわれわれが利用していたのが『清龍』。1500円くらいでコンパができたように記憶しているが、値段が安い分料理も唐揚げ、揚げシュウマイ、フライドポテトなど、揚げ物ばかりだった・・・。日本酒の蔵元が直営してるこの店も、貧乏学生にやさしかった。1000円でも酒を飲み、つまみをとって十分に酔うことができた。そう言えば、この店にも久しく行っていないな。
posted by Prof.T at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

ゼミの最中に・・・

 昨日のゼミであくびをしたら報告中の学生に見られた話を書いた。ずっと原稿に目を落として報告していたのに、そのときだけ顔を上げたのである。

 少々長い報告で、こちらが退屈しているように思ったのかもしれない、「(報告が)長すぎますか?」と聞いてきた。もちろんそんなことはなかったので、「問題ないよ」と報告を続けさせた。

 そう言えば、他のゼミは知らないが、私の学部時代のゼミでは、先生はあくびなどしていなかったな。学生が報告しているときは、すーすー寝ていた・・・。大学院の指導教授もあくびなどしていなかった。院生の報告の最中にやはりすーすー寝ていた(寝ていた先生をコーヒーで起こした話は7月3日に書いた)。

 もちろん昔だって、寝るなんてことはなく、しっかりゼミの指導をしていた先生もいただろうし、今だって、寝てしまう教員もいるだろう。しかし、今の私にはゼミの最中に寝ることは(死にそうに眠くなるようなことはあるが)考えられない。

 それでも学部学生時代は、ゼミの最中に先生が寝ることはあり得るようなことだと思っていた。それは私だけではなかったように思う。つまらない報告をする学生に責任があるように考えていたはずだ。多くの学生は先生が寝ないような報告をしようと、(ときどきは)頑張ったと思う。実際には、先生は毎週のように寝ていたから、それらはたいていは虚しい努力に終わったのだが・・・。
posted by Prof.T at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

紙の辞書の思い出

 先日、大学院の授業が終わったあと、1人の学生と雑談したときに、どの辞書を使っているか聞いてみたら、「電子辞書です」というわけのわからない返事が返ってきた。

 いや、その、電子辞書にどの辞書が入っているのか知りたかったのだが、「『ライトハウス英和辞典』がいいと言われたので、それを使っています」というこれもまたよくわからない答えが返ってきた。

 電子辞書に『ライトハウス』が入っているのかどうなのか、わからないやりとりだったが、『ライトハウス』とは懐かしい名前を聞いた。そう言えば『ライトハウス』は私も学部学生時代に使っていたのだった。

 大学院入試の英語の勉強は『リーダーズ英和辞典』と『ライトハウス』を併用して使っていた。単語は主に前者を、構文を取りたいときはもっぱら後者を引いた。机の上に2冊の辞書を置くのも大変だったが、いくつかの単語を同時に調べてしおりを入れたり(もっともこういうことはほとんどなかった)、鉛筆やペンを入れたり(これは多かった)、場合によっては指を挟んで閉じないようにしていた(実はこれが一番多かった)な。人差し指と中指と薬指を辞書に挟んでいたりすると、たいてい何かの拍子にどれか抜けてしまって、ページが閉じてしまい、また引き直すなんてことを何度もした。

 電子辞書ではそういうドジは発生しないし、確かに便利なのだが、紙の辞書のように、複数の辞書を同時に見たり、1つの辞書の複数のページを同時に見たりすることができないのは、当然と言えば当然だが、残念だ(複数の電子辞書を使えば解決するけれど)。ヒストリーで前に調べた単語を簡単に見ることもできるけれども、ボタンを押して出るまでの時間が何とももどかしい。指で挟んだ紙の辞書でのページ移動の方がはるかに早い。もっとも指が抜けていなければの話ではあるけれども・・・。
posted by Prof.T at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月30日

三品

 昨日はお昼にカップ麺を食べただけ。書類を作っている最中にお腹が減ったが、しっかり食べると作業が中断されるので、結局作り終えるまで我慢した。「ああ、思いっきり食べたいなあ」と思ったら、三品(さんぴん)のことを思い出した。

 大学の西門近くにあった三品食堂のことである。ガツンと食べるならここで決まりだ。フクちゃんとカレーの藤の前を通って大学の西門に近づくと、この店が見えてくる。

 三品は開店当初の牛めし・カレーライス・カツライスの3つのメニューに由来する。店の看板、のれんには牛めしと大きく書かれている。現在は牛めし、これにカツを加えたカツ牛、カツ牛にカレーを加えたカツミックスなどが主なメニューだ。

 私はお金がないときは牛めしに卵を入れた玉牛を頼んだが、たいていはカツ牛に生玉子を入れた牛カツ玉の大盛りである大カツ玉を注文するのだった。お腹が空いているときはこれで決まりだ。ガツンと食べたいときは大カツ玉が一番だ。

 壁にはOBの色紙やペナントが所狭しと飾られている。この店のメニューから運動部のものが多いのは納得できる。いかにも学生街のめし屋という感じが出ている。そうそう、メニューには超特大の「赤」もあった。超特大のどんぶりが赤かったので、赤カツ玉などと呼ばれたが、これはさすがに試したことがない。食べきるだけの自信がなかったからだが、赤は運動部御用達のメニューで一般学生は彼らの聖域を侵してはならないような気もしたのだった。

 大カツ玉は650円ぐらいだったのかな。少々値が張るので、他の店よりも顔を出す頻度が少なかった。食べたあとの胃の負担と衣服に付く料理のにおいが、「三品で食ったぞ!」という思いを強くし、この「満足感」がまたこの店に通う率を低くした。

 牛めしはやや癖があるが、豆腐が薄く切って入っていた。どういう理由で豆腐が入っているのかは知らないが、この豆腐を私は気に入っていた。

 幸いなことに、三品のメニューはまだ味わうことができる。大カツ玉をまた食してみたいが、学生でいっぱいの店に入っていく勇気が少々ないのと、食べたあとの「満足感」を想像すると、大カツ玉は無理で、中盛りの中カツ玉か、あるいは単なるカツ玉にしようか、いやいやそれでは三品に行く意味はないぞと、いろいろ逡巡していて、今のところ具体的日程に上っていない。
posted by Prof.T at 11:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月26日

スペシャルドライカレー

 カレーの藤と言ったら、スペシャルドライカレーで決まりである。普通のドライカレーやケチャップライスもあったが、私の一番はなんと言ってもスペシャルドライカレーだ。

 スペシャルドライカレーは、ドライカレーのてっぺんを凹ませて、そこに生玉子を入れ、粉チーズを振りかけたものである。ドライカレーの平板な辛さ(と思われたので私はあまり注文しなかった)が、生玉子と粉チーズによって芳醇と呼んでもいいような深みのある味に変貌した。カレーの辛さに玉子の甘さが加わり、チーズによってコクがもたらされた。まったりした味とねっとりした感触が好きだった。

 粉チーズは大さじにかなり控えめに盛られていて、実を言うともう少しふりかけてもらいたかった。新入りのアルバイトがどの程度かけていいかわからず、ときどき「チーズはどのくらいかけますか?」などと客に聞いたりしていたが、そういうときはお姉さんからすかさず指導が入った。

 スペシャルドライカレーの難点は650円(だったと思う)という料金だった。貧乏学生だった私は、200円を惜しんで普通のカレーにしたことが何度あったことだろう。それとこれはスペシャルドライカレーに限ったことではなく普通のドライカレーなどにも言えるのだが、火の関係で注文されてから1つずつ順番につくっていかざるをえず、これらの注文が重なると、そこそこ待たされたことである。一緒に入った友人が普通のカレーを頼んで食べ終わって出ていった頃に、ようやく自分のスペシャルドライカレーが来るというようなこともあった。ロボットとかサイボーグと言われたお姉さんの手さばきをもってしても、注文が5つも6つも重なると、しばし待たざるをえなかった。まあ、そういう時は、身体は動かず、腕だけが高速(光速)に動く、お姉さんの調理姿を見ていれば良かったのだが・・・。

 カナリヤ同様、カレーの藤においても、店内に緊張感が走っているときがあった。母娘喧嘩の時だった。

 フクちゃんの納豆メンチもカナリヤの生スタも食べたいが、どれか1つを選べと言われれば、スペシャルドライカレーが、一番食べたい。
posted by Prof.T at 03:48| Comment(4) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月25日

カレーの藤

 フクちゃん、カナリヤと来たら、カレーの藤を書かないわけにはいかない。フクちゃんのほぼ斜め向かいにあったこの店のカレーも何か薬でも入っているのではないかと思わせる癖になる味だった。

 カレーライスにはゆで玉子か生玉子がついた。「玉子は生ですか、ゆでですか?」と聞く、ポパイに出てくるオリーブに似たお姉さんさんの問いに、カナリヤでは生スタを頼んでいた私は、藤ではなぜか「ゆで」と答えていた。

 カレーのルーは1回だけ追加してもらえた。初めての客なのだろう、親切な店だと調子に乗って、2回目の追加を頼むと、オリーブお姉さんに、「1回だけです」とたしなめられた。

 カレーは450円だったように記憶する。生協食堂のカレーが150円だったから高いと言えば高い。ただし、量は1.5倍くらいあって、味は2.5倍くらいで、玉子も付いたから、3倍の値段は妥当といえば妥当かもしれない。

 カレーを注文した回数が一番多いとは思うが、私の好きなメニューは別にあった。それについては、稿を改めて書きたい。

続きを読む
posted by Prof.T at 18:27| Comment(19) | TrackBack(1) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

塾講師の思い出

 3年ゼミの学生たちが英語学習に燃えてきているのを見て、塾講師をやっていたときのことを思い出した。

 その塾は、町の補習塾で、私が教えていたのは中学3年生だった。小さな塾で、1クラスは8人程度、私は中学3年生の2クラスの英語と数学を教えていた。

 生徒の成績は真ん中からやや上ぐらいだった。補習塾に来るくらいだから、そもそもあまり勉強していない生徒が多かった。ところが、そもそも勉強していないから、塾へ来て勉強しはじめると、ぐーんと成績が伸びてくる生徒が出てくる。そうすると、その生徒の友だちで、やや成績がいい子供が、その秘密を知りたくなったのか、入塾してきたりした。成績が上がる秘密は何もない、ただ勉強するだけだ。ただ、若干楽しく勉強したのではあるけれども。

 ずば抜けてできる生徒はいなかったけれども、とにかくみんなで一緒に高校合格という目標に向かって勉強しようとする姿勢があった。そういう姿勢があったから、こちらも彼らに教えるのが楽しかった。
posted by Prof.T at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

カナリヤ

 フクちゃんの話を書いたら、カナリヤを思い出した。こちらもカウンター席10席ほどが中心の狭い店だった。

 親子丼などもあったが、この店の名物は、スタミナライス、通称スタライだった。実際のところは、麻婆豆腐がけライスだった。普通のスタライ、生玉子を載せた生スタ、ゆで卵を載せたゆでスタの3種類がメインで、私はたいてい生スタを頼み、ときどきゆでスタも注文していたように記憶する。スタライが290円、生スタ、ゆでスタが340円だったように覚えている。大盛りメニューがある時期もあったが、そういうときでもご飯がないという理由で断られたこともあった。

 入学当初は癖になって毎日のように食べていた。あまりに癖になるので、何か薬でも入っているのではないかと、友人たちと話したこともあった。

 ご夫婦が切り盛りしていて、どちらもこのような食べ物屋をやっているようには思えない知的な感じだった。そのためか、他の店よりも店内は静かで、みんな黙って食べていた。ときどき静かを超えて、妙な緊張感が店に走っているときがあったが、そういうときはたいてい夫婦喧嘩の最中だった。

 フクちゃんのアルバイトは男子学生ばかりだったが、カナリヤは女子学生ばかりだった。このあたり、同じB級グルメを提供する店でも好対照だった。

 スタミナライスの名前の由来を聞きたかったが、結局聞かずじまいだった。また食べに行ったついでに聞いてみたいが、もはやそれはかなわない。カナリヤはフクちゃんよりもずっと早くに姿を消してしまったからだ。
posted by Prof.T at 11:12| Comment(4) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月23日

フクちゃん

 牡蠣フライを食べにとんかつ屋へ入ったら、なぜか学部学生時代によく通った大学近くのとんかつ屋のことを思い出した。

 カウンター席に10人ほど座れたのだろうか、2人がけのテーブル席が3つくらい、一番奥に4人がけのテーブル席があったような気がするが、記憶は定かではない。

 普通のとんかつは置いていないという変わったとんかつ屋だった。おろしトンカツ、チーズトンカツといった、変わりとんかつばかりを食べさせる店で、その中でも異彩を放っていたのが、チョコレートとんかつ、通称チョコとんだった。下手物的に扱われることが多かったが、食べてみるとチョコレートとソースがいい塩梅で、結構いける味で、好きだった。テレビや雑誌にもよく取り上げられていた。

 ただ貧乏学生だった私は、なかなかとんかつには手が出ずに、もっぱらメンチカツを食べることが多かった。こちらも必ず中に何か入っているものばかりで、普通のメンチカツはなかった。私が好きだったのは、納豆メンチだった。バナナ入りもあったが、これは手を出したことはない。

 他にもどんぶりいっぱいの豚汁がついたランチも名物だった。とんかつにつきもののキャベツは千切りにはほど遠かったが、それをワシワシ食べるのが、何ともこの店のとんかつ、メンチカツには、ふさわしかった。あんな太いキャベツを食べさせるとんかつ屋は、後にも先にもこの店くらいだろう。そうそう、みそ汁のお代わりができたんだった。けれども、お代わりのみそ汁にはほとんど具が入ってなかった。

 壁には学生や卒業生の寄せ書きの色紙が所狭しと並んでいた。店のつくりにしてもとんかつにしても、どちらも上品とはほど遠く、うまいかと問われても直ちに首肯しがたいのだが、それでもやっぱりときどき無性に食べたくなる。もう店がないだけに、その思いは一層強い。フクちゃんのチョコとんと納豆メンチは思い出の中に残るだけだ。
 
posted by Prof.T at 23:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月16日

のたうち回って・・・

 帰国1ヶ月半前にのたうち回って書きはじめた論文だが、何とか帰国1週間前に書き上げた。郵便では間に合わないので、国際宅配便を使って送った。実際には、書いている途中で、ぎりぎりまでかかることになりそうになり、郵送では無理だと思ったというのが正しい。国際宅配便なら2日ほどで届くだろうから、余裕を見て1週間前に出せば問題ないだろうということで、完成が帰国1週間前になった。

 いずれにせよ、帰国までにとりあえず留学の成果を形にできた。帰国して、指導教授に電話で帰国の挨拶をしたときに、「論文も受け取っている」と聞いてホッとした。他に何を話したのか、よく覚えていないが、このことだけは鮮明に覚えている。

 その後、大学院の研究指導に顔を出し、いくつか加筆修正するように言われ、大急ぎで直した。紀要の原稿提出の締め切り日が迫っていたからだ。何とか締切に間に合わせ、こうして最初の論文が活字となった。
posted by Prof.T at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月04日

大学院受験の話(3)

 当時、塾のアルバイトをしていたが、大学院の試験の1週間前から受験が終わるまでの間だけは、理由を言って休ませてもらった。

 完全に夜型の生活で、明け方というか朝まで勉強して寝て、午後3時頃起きる生活だった。私は基本的には家ではテレビを見たりして落ち着いて勉強ができない。図書館もダメ(5月5日の記事参照)で、喫茶店で勉強したりすることが多いのだが、このときばかりは家に閉じこもって勉強していたように記憶する。切羽詰まると外に出る時間が惜しくなるし、とにかく勉強に集中するのである。逆に言えば、切羽詰まらないと集中しない、できないという困ったやつなのだが・・・。

 3時頃起きて、買い物に行ったり、場合によっては銭湯に行ったりしていると、すぐ日が落ちて、日光を見るのはわずか2時間ほどの、文字通りの暗い生活を送った。スーパーに買い物に行ったこと、すぐ日が暮れるので「1日が短いな」と感じたこと、そしてコーヒーを淹れたことしか記憶に残っていない1週間だ。とにかく必死になって勉強していたのだと思う。「勉強していた」と断定的に書きたいのだが、とにかく記憶にないので、「思う」としか書けない・・・。まあ、それほど勉強に専念していたということだろう・・・。
posted by Prof.T at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大学院受験の話(2)

 夜型か朝型かどちらか選択せよということになれば、朝型を選択するが、大学院受験の頃は、完全に夜型だった。

 月曜日から土曜日まで塾のアルバイトをしていたので、帰宅は10時頃。風呂なし4畳半に住んでいたので、銭湯に行き、帰りにコンビニでジュースを買ったり、夜食を買ったりしていたように記憶する。

 夜型といっても、バイトで疲れ、加えて夜食を食べて、眠気が襲い、ちょっと10分だけ休憩しようと思って、そのまま朝まで気絶していたこともしばしばだった。何とか頑張ったときは、朝刊が届いてそれを読んでから寝るのが常であった。そうすると、朝、起きてから読むものがない寂しさはあったけれど・・・。

 深夜、暗い中、静寂の中で、受験勉強を続けていた。
posted by Prof.T at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。